ホーム

修了後の進路

修了後の進路

国際経営の知識と
実践的な問題解決能力を備え、
大学教員、研究者、技術者、高度専門職業人としてさまざまな分野で活躍。

経営学研究科の卒業生は、その専門知識を生かし、大学・研究機関に加え、各種産業界でも活躍しています。

修了後の進路(就職先例)

本研究科では、本人が希望する産業分野への就職をはじめ、大学教員、研究機関の研究員、外国政府機関の専門職員等、高度専門職業人として活躍しています。また、外国人学生においては母国の企業・行政・日本企業等において専門性を発揮しています。

・学校法人神奈川大学 ・学校法人嘉悦大学 ・学校法人東京農業大学 ・特別区人事委員会 ・税理士法人さくら共同会計事務所 ・日立Astemo株式会社 ・株式会社ミスミグループ本社 ・カプセルコーポレーション株式会社 ・池上通信機株式会社 ・三祥貿易株式会社 ・日本通運株式会社 ・コンピュータシステム株式会社 ・テックス・テクノロジー株式会社 ・株式会社四季リゾーツ ・コストコホールセールジャパン株式会社 ・中国銀行(中国) ・上海国有資産投資有限会社(中国) ・中国南方電網有限責任公司(中国)

修了生からのメッセージ

大学院を振り返って
環境に恵まれた充実の研究生活

于 宏宇
神奈川大学大学院経営学研究科
博士前期課程2019年修了
于 宏宇さん

ー研究テーマのきっかけになった「社会人3年目の壁」。

私は中国の大連出身で、2018年3月に神奈川大学 経営学部を、2019年3月に同大学院経営学研究科博士前期課程を修了しました。2020年の春から、日系のIT企業でシステムエンジニア(SE)として働いています。

高校3年生の頃、進路を考えていた時に、両親から文化的・経済的なつながりのある日本への留学を勧められたことが、日本に渡るきっかけになりました。留学先を決めてからは、まず東京の日本語学校に通い、そこで担任の先生から神奈川大学について紹介されたことがきっかけで、自分でも大学のホームページを調べてカリキュラムに興味を持ち、経営学部への進学を決めました。

学部時代に興味を持ったのが「経営組織論」です。どのようにすれば組織の全体的なパフォーマンスが上がるのか、といった学びにとても面白さを感じました。組織は“人”で構成されているので、そこから「組織論」や「人的資源管理」などへ学びが広がっていきました。授業のほかにも懸賞論文に応募したり、留学生の交流の場づくりに学生有志で立ち上げた団体の代表を務めるなど、充実した毎日を過ごしていました。

ある時、耳にしたのが「3年の壁」という言葉。当時、新卒者が3年で退職してしまう事態が社会問題として多く取り上げられており、そこで「外国人はどうなんだろう?」と興味を持ちました。その時に芽生えた疑問が、次第に「日本企業で働く外国人の働き方について考える」自分の研究テーマへとつながっていきました。

「3年の壁」に興味を持ってから、学部2年の頃は「留学生が日本企業で働く時、どのような状況なのか?」、3年の頃は「外国人と日本人の働く意識」について調べました。4年次には「どのようなフォローが定着率の向上につながるか」を切り口に研究を行い、最終的に大学院では「日本企業における外国人従業員のための在職中のフォローのあり方」を修士論文にまとめました。

ー大学院への進学。さらに1年間での早期修了を目指す、自己への挑戦。

自身の研究テーマが見えてきた学部2年次の後期頃から「学部だけでは研究しきれないのでは?」と大学院進学の必要性を感じており、3年次の後期には大学院に進むための準備をスタート。4年に進級してからは早期履修制度を活用して大学院の授業も一部先行して履修し始め、学部と大学院の勉強を両立する生活が始まりました。

自分でも“日本で働くこと”を経験したく、研究材料を集める意味でも、いろいろな業界でアルバイトを経験しました。実際に働いてみて感じたことがあります。例えば、新人が仕事のイメージを掴んだり業務内容を理解する際、新人教育を担当する指導員の方の教育方法とその方が有している経験に大きく影響されてしまいます。それならば、いきなり職場で働きながら指導を受けるOJT教育よりは、OFF-JTと結合した方が良いのでは、と思ったこと。また、従業員への指導方法についても、暗黙知を整理した公式的なドキュメントがあると仕事が効率化できより働き方がスムーズになる。しかし、ドキュメントに頼りすぎてしまうと、従業員の考え方の硬直化が発生し組織のパフォーマンスが低下してしまうのでは、との考えも持ちました。
アルバイトながらも、問題意識があったからこそ多くの学びがあり、実体験を通して得た視点は、修士論文の中でも大いに役立ちました。
※OJT教育、OFF-JTはいずれも人材教育用語。OJT教育とは、担当者から現場で直接業務を学ぶこと。OFF-JTとは、現場から離れて行われる研修や講習のこと。

また修士論文を執筆する上で貴重な経験となったのが、大学院生として登壇した9月と10月の学会発表です。学会では主に、外国人に対してどのようなフォローを実施したら良いのかについて発表しましたが、講評で、外国人に特化したフォローを実施する重要性および、意図的に外国人と日本人を別枠にした理由をもっと述べた方が信頼性が高まるのではないかとアドバイスをいただきました。時間的に学会発表は2回に限られましたが、テーマに対する社会的関心の高さも感じたので、発表回数を増やして新しい知見を得ることができると、さらに良かったとも感じています。

敢えて大学院の早期修了制度を選択したのは、1年間で大学院を修了できるかどうか「自分にチャレンジしたい」気持ちが強かったです。限られた時間内でのスケジュール管理や課題の準備・提出、朝から晩まで大学に篭っての論文執筆など、大変なことも多々ありましたが、間違いなく充実した1年間でしたし、やりがいもあり、また修了できた時には大きな達成感を得ることができました。学部時代から湯川先生のゼミに所属しており、大学院でも同じくご指導いただきました。実は、湯川先生が神大で送り出す初めての院生が私でした。毎週木曜日、一緒に学食で昼食を取りながら厳しくも優しい先生に、学業の悩みや私生活のことなど、いろいろな相談に乗っていただいたのも良い思い出です。

ー5年間で得た財産を生かして、より良いチームづくりを。

学生時代を振り返って、改めて思うのが「環境」の重要性です。各々が自分で立てた学習面の目標を実現するために努力をすることは必要ですが、困ったことがあった時に、親身になってくれる相手が身近にいると問題解決がスムーズになると感じます。私も先生や友人など周りに恵まれたからこそ、大学院のハードなスケジュールを乗り越えることができました。環境に恵まれ、じっくり学びに向き合った神奈川大学での5年間は、私の人生の大きな財産です。

大学院を修了後、学部生の頃から日本企業や日本で働くことを研究していたので、中国には帰国せず日本での就職を希望しました。実際に自分がそこに身を置いた時にどう感じるのかを検証したかったですし、ここで日本企業に就職しないと後悔しそうな気持ちもあったからです。

就職活動では複数の企業に応募し、その中で、自分のやりたい仕事の内容とプロジェクト規模の大きさから現在の企業を選びました。今はSEとしてシステムの設計職を担当しています。仕事では常に「なぜ、その設計になったのか、その設計はお客様のニーズに応えているのか?」を問われますが、修士論文で経験した自らの思考を深めていくプロセスが、この仕事にも役立っています。

于 宏宇さん

また組織論などを学んできた背景から品質向上と効率化といった業務改善に興味があり、どのようにすればチームの底上げを図ることができるのか、日々意識しながら働いています。

今後は、まず担当業務の知識を増やすことを目標に、いつかチームを取りまとめるような機会が得られるなら自分が学生時代に学んできたことを生かして、より良いチームづくり・環境づくりに貢献していきたいと考えています。

閉じる

大学院を振り返って
学びと成長支援で
実りある大学院生活

平田 沙織
神奈川大学大学院経営学研究科
博士後期課程2016年修了
平田 沙織さん

私は、神奈川大学で学部と大学院(博士前期・後期)8年間を過ごしました。8年間というのは、大学院前期課程の時に早期修了制度を使用したため1年短縮して卒業しています。幼い頃から父の転勤のため2年に一度、全国各地を転居していた私にとって、8年間もの長い間同じ場所で過ごすということは未知の経験でした。これまで出身はどこですか?と聞かれた際、いつも自分の故郷はどこだろうと考え曖昧に答えていました。しかし、現在は、この神奈川の平塚が故郷と思っています。大学、大学院と過ごしたくらいで故郷とは大袈裟だなと思われるかもしれませんが、この8年間、私は神奈川大学から多くのことを学び、多くの人と出会い、人生の基礎を築かせていただいた大切な場所です。

湘南ひらつかキャンパスは、真面目な学生が多く、人数も程よく少ないため、人間関係が密で先生や友人と良好な関係を築くことができます。大学院では、先生との関係が近かったため、ゼミや授業では議論が白熱し、多くのことを指導していただけました。特に、照屋行雄先生には大学院博士後期課程の3年間熱心に指導していただき、とてもお世話になりました。博士後期課程では、社会福祉法人の情報開示や統合報告書について研究を行い、先駆的な研究として学会や企業等からも評価を頂きました。現在では、非営利法人や中小企業等従来統合報告書の作成に取り組んでいなかった組織から統合報告書作成したいとの声を頂き、内容等具体化しているところです。照屋先生には、研究内容や博士論文の作成、研究発表についてご指導をいただき、多くのことを学びました。照屋先生は、学業だけではなく私の人生のお手本となっています。

家庭的な事情で大学や大学院への進学を諦めている人が多いなか、この神奈川大学からは、たくさんの支援を頂き、大学も大学院も無事に卒業することができました。その点でも私はとても恵まれていたと思います。高校生の時、あしなが育英会という支援団体から奨学金の援助を受けて高校へ通っていましたが、あしなが育英会でできた友達の多くは、経済的な理由から大学進学を諦めていました。ましてや大学院なんてとても通えるはずがないとすら思っている状態です。ですが、この神奈川大学では、返済不要の奨学金制度が充実していて、学ぶ意欲のある学生には惜しみなく支援してくださいます。私もその一人でした。

神奈川大学で過ごした8年間は、奨学金制度が私の生活と学修の支えでした。神奈川大学に支援してもらえなかったら大学院へは通えなかったですし、

平田 沙織さん

大学卒業についても学費を稼ぐためにアルバイト三昧となり厳しかったと思います。

この春、無事に大学院を卒業し、現在は、神奈川大学の講師として今度は後輩達に学問を教える立場になりました。先生の立場から学生に神奈川大学の良さを授業のなかで伝えています。学生が卒業する時には、神奈川大学を卒業したという自信と誇りをもって巣立っていってほしいなと願っています。

神奈川大学には感謝してもしきれない恩があります。私は、今後、神奈川大学の学生の成長をサポートすることで、このご恩を返していきたいと思っています。これから神奈川大学大学院へ進学しようと考えている方は、ぜひ安心して大学院生としての一歩を踏み出してほしいなと思います。

詳しく見る

六十歳代を生きる
新たな世界への模索

大学院で体験した「心の習慣」

萩原 富夫
神奈川大学大学院経営学研究科
博士前期課程2012年修了社会人修士

現在、私は二宮金次郎翁の思想と行動について学んでいる。現場主義を死の間際まで、至誠の行動をもって貫いた人であった。この人への関心は、本学の大学院経営学研究科博士前期課程で学んだ授業の協働創造という経験が「心の習慣」の世界と深く関わることから生み出されてきた。その授業で出会った経験のひとこまを紹介してみたい。

2005年に六十歳で退職した私は、その四年後、長年心に抱き続け一度は本格的な研究生活を経験してみたいと思い大学院に入学した。その入学は、私の生きられる環境を創るのに支援をいただいた多くの人々の“仁恕の社会力”との接触に拠るものであった。

合格通知を受け大学院で如何に学ぶかを考えているとき、偶然図書館の前で複数の教員から「大学院を大いに楽しみなさいよ」という言葉をいただいた。これだ!この“楽しむ”を置いて他に目的は無いと思った。では授業風景の中の自らの行動はどうするか。学ぶこと、研究することを“志向”して入学した院生達が共に協力して創る授業である。自由な発想による自由な討論が存在すると予測された。真摯に学ぶプロセスが活気を持ち、協働思考の場に率先して参加する。私の授業参加のコンセプトは、「自由な発想と討論を楽しむ」ということに決まった。この授業の雰囲気が後に説明する「心の習慣」である。

一年目は週五日間で演習一コマと特講(授業)六コマを受講する。流石に時間的余裕がなかった。私は一授業で使用される資料の範囲を必ず三回は読み、その要旨をレポートし、私にとっての問題点を三点挙げ、英文は全訳して授業に参加した。授業以外の全ての時間が予習に当てられた。大学に居る間に行うこと、家に帰って行うこととの異なる仕事の連続とその余裕の無さとが相侯って、却って毎日の授業が新鮮な心で迎えられるように思われた。意識した行動と思考の持続が自他の発見という新たな世界の兆しを予感させた。

授業で使う資料の範囲は、事項や語彙の意味を予め図書館で調べて三日程読むとほぱ概要は押えられる。何処かの一流大学でもテキストは三回以上読まないと授業に参加する資格は無いと授業参加者が申し合わせていると聞いたことがある。予習の有無は授業への意識の志向性に決定的な影響を与える。自分が変わるためには当然為すべき仕事だと思う。

全ての授業ではない、いくつかの心に残る授業での風景である。多くの授業はその日の授業範囲で最初の発言者が決められている。その発言者の報告の後、教員が当該範囲の概容と問題点を説明し、質問を受け付ける。私にとってその問題点の指摘が常に新鮮に聴こえただけではなく、ある種の世界に誘い込むようにも感じ不思議な現象を味わった。そのため、予め用意した質問が不要になることも、またその質問が教員の説明の中で直感的に感じた問題と重なって新たな情報を生み出すこともあった。しかし、その多くは普段流されて遣り過ごしている問題が改めて意識の俎上に取り上げられるということでもある。自明視している問題を純粋意識に立ち返って考えてみよというのである。ここには普段の思考に囚われた枠組みから自由な思考の世界に発想の転換を迫る現場性の持つ緊張感がある。

教員からの質問の逆襲に遭った院生は、乏しい知識を振り絞り、冷や汗を掻きながら抗戦する。この姿は大いに共感を呼んだ。私の場合は授業が終わると次の日の予習ができないほど、どっと疲れに襲われた。しかし、こんな時は心が密かに高揚し、大袈裟にいうと自らの思考が変化していくようにも感じていた。教員による逆襲は演習授業では日常茶飯事であろう。深遠な問題に出会う旅は、院生と教員が相互に関心領域への透徹した心の知覚を育み合い、その“共鳴する心”が学問の共通目的へと意欲を駆り立てる所にこそ存在する。

厳格な表情で坦々と説明する教員の顔は、一見人を寄せ付けない厳しさがある。しかし、そんな教員にとっても的を射た質問が出された時は流石に胸襟を開かれ、若々しく笑みさえ湛えて、芋蔓式に資料以外の知識の世界にわれわれを誘った。そんな表情に遭遇した時はこの存在こそが教授だと心の中で拍手し、心躍るものを感じた。創造的で緊張感に満ちた授業=「心の習慣」は、日常性に流されている無表情な心とは全く違う世界である。

毎日発言する私をみて最初の時期は顔を見合わせて笑っていた院生達も次第に発言するようになって行き、教員の方も討論を醸成する質問を常に投げ掛けてきた。前期が過ぎる頃になると四十歳も年齢の隔たる若い友人が出来てきた。これは心底嬉しかった。世代を超えて、なかなか手強い社会性のある議論をもちかけられた。そんな時は昔上司が良く話していた、年齢を超えて生きられる今を共有する“同時多発する世界”を味わえた。それは人間のもつ感情や思考の深みや厚みの再認識であり同時に“生命躍動” の一時でもあった。

関心を触発された授業は、前期で終ってしまうのでは名残惜しく、友人と一緒に担当教員に頼み込み一年間の延長をお願いした。ラッセルの「ヒューム論」では「因果関係」が社会的想像の産物であることを学び、ウォルフレンの「システムとしての日本権力構造」では、その構造に当事者不透明な権力の実態を学んだ。学友としての意識が芽生え、教員と共に学ぶ相互信頼の場から生まれてきた知識は、今私が学ぶ生活の中で息づいている。

一年目の後半頃から私は、緊張感のある創造的な授業と「心の習慣」という概念の結びつきを意識するようになった。この概念は、米国の社会学者ロバート・ベラーから学び、知性、意志、意図を試行錯誤的に統合するその過程が規律の進化を生み出す共に生きられる世界と理解した。私は修士論文の「制度生成論」にこの概念を使いたいと考えていた。全く顔見知りでない者達が、たとえ半期の授業でさえ、相互の知性、意志、意図を織り込む志向性を働かせ、協働と規律が芽生え、その持続が制度生成へと発展する。私は複数の授業で、“持続する意識化の世界”を体験した。流される日常に待ったを掛けるこの世界には、相互に学び合う純粋直観の交流があり、発見と驚きがあり、心の澄爽があった。

授業のプロセスで確認し、ベラーから学んだ「心の習慣」の概念は、私が二十代から学んできた自然を単なる利用手段にした「近代」に対し、自然に抱かれ、自然との対話の中で生活する日本人の思考習慣を是とするものでもあった。二宮金次郎翁は人間の営みと自然の営みとを実践的統合形態において、疲弊した農村の人々の復興に対応し、偉大な成果をあげられた。その思想と行動が重視した最大の局面が“協働する意識” の再生である。私の大学院生活は、私を心の底から揺り動かし、激しく思考の転換を迫る経験となった。

詳しく見る

大学院で何を学ぶか学んだか
振り返って思うこと

小林 里英
神奈川大学大学院経営学研究科
博士前期課程2010年修了

現在税理士として仕事をしていますが、神奈川大学に進学したときから祖父の職業であった税理士になる事を目標としていました。残念な事に祖父は大学入学をした年に他界してしまいましたが、その事でより一層税理士になる決意を固めました。税理士を目標にしてきた事もあり、学部時代は照屋教授のゼミでお世話になりました。私が在学していた当時、照屋教授は公認会計士の試験委員でした。まさに会計の世界の第一人者といえる教授のもとで学ぶことが出来たことは大変恵まれた環境であったと思います。また教授の熱い姿勢は非常に刺激になったことをいまでもよく覚えています。

その後、大学院に進学し財政・税制の専門家である青木教授のもとマンツーマンで指導して頂きました。大学院在学中は、講義、修士論文、税理士試験、会計事務所での仕事…たくさんのわらじを履いている状態でした。特に一年生の時は、修了するために単位を修得する必要があり、また、税理士試験も受験する必要があったので本当に忙しかったです。今考えるとよくこなすことができたなと思いますが、飽きっぽい私には向いていたのかもしれません。一つの事にじっくり時間をかけるよりも、限られた時間のなかで精一杯やっていくほうが結果として怠ける事ができず、集中する事ができたと思うからです。

一つ一つ手を抜くことができなかったので、スケジュール管理は意識して行うようにしていました。自宅と学校の場所が離れていたので通学時間を理論暗記に充て、あえて講義と講義の間に空き時間をつくり、レジュメ作りの時間や税理士試験の模試の時間にしていました。院生室に自分専用の机を用意して頂いていたので、ストレスなく作業を行うことができました。このような生活を送る事で、在学中に自分を管理していく術を自然に身につけたのだと思います。

忙しいながらも院生一年目の時は、様々な講義を受講していた関係で他のゼミ生とも仲良くなる事が出来ました。特に思い出深いのは、留学生と仲良くなれたことです。私が在籍した当時、約三分の一が留学生だったのではないでしょうか。さらに全体として女性が少なく、日本人女性は私以外に一人だけでした。そういう状態でしたので、自然に留学生と仲良くなることが出来ました。中でも中国出身の留学生と台湾出身の留学生とは今でも定期的に連絡を取り合っています。

中国人留学生は大学生の頃から神奈川大学に通っていたこともあり、日本にいる期間も長く日本人とほとんど変わらない印象を受けました。彼女とは鎌倉やディズニーランドに出かけるなど、たくさんの思い出を作る事が出来ました。特に思い出深いのは、手作り餃子を御馳走してもらったときです。彼女の作る餃子は皮も手作りしたもので、とってもおいしかった事を覚えています。包み方が違うと指摘をうけ、基本が焼き餃子ではなく水餃子、さらにたれではなく黒酢で食べるなど、このときばかりは文化の違いを感じました。また台湾の留学生には台湾の事を細かく教えていただきました。お正月休みを利用して台湾旅行を友人と企画していたので、彼のアドバイスは本当にありがたかったです。電車の乗り方からガイドブックには載っていないようなお勧めスポットなど、現地の人ならではの情報を教えて頂きました。彼のアドバイスがなければ電車に乗って移動する事もなかったと思います。メディアを通して知る外国人はどこか遠い存在でしたが、留学生たちとの交流はそういった偏見を持っている自分に改めて気づかされ、ぐっと距離を縮める良い経験でした。

二年生に進級して、いよいよ修士論文に本腰をいれる時期になりました。大学院に進学するまでは受験勉強として税法を学んでいたので、青木教授から学ぶ体系的な税法・税制は非常に勉強になりました。受験勉強として理論暗記を行い、計算問題をこなして行く事も基礎力を養う上で重要なことだと思います。しかし、修士論文を通じて学んだことがいままさに仕事に活かせています。

税理士という職業は、毎年繰り返される通常の業務に加え、専門家として税制改正への対応、突発的に発生するお客様からの相談事への対応、主にこの三点が柱になっているように感じます。このうち、特に後半二点への対応及び解決への糸口を探る過程が修士論文作成の過程と非常に似ているためです。お客様からの相談事はまさしく修士論文でいうところのテーマにあたり、その解決策を探るにあたって税法の条文を読み解き、関係資料を集め整理しまとめていきます。この「まとめる」という行為が「論文執筆」に当たり、その結果を「お客様にお伝えする」ところが「研究発表」と重なるためです。大学院在学中、私は所得税法五十六条をテーマに置き、その分野に関しては誰にも負けない分量の資料を集め、整理し、様々な角度から検討を重ねました。青木教授には税法の専門的なことから初心者エクセル講座、基礎的な文章の書き方等、多岐に渡りマンツーマンで教えて頂くという非常に贅沢な時間を過ごすことが出来ました。その結果、専門書を読むことにも免疫がつき、速読力がつきました。資料を集めるにあたっても、インターネット、大学の図書館のみならず、大崎にある税理士会館、国会図書館など、大学院に入学するまでは全く縁のなかったところも積極的に活用できるようになりました。修士論文作成と税理士としての業務は一見するとかけ離れているようですが、実はすごく緊密な関係にあるのではないかと思います。修士論文に真剣に取り組んで本当によかったです。

振り返ってみると国際交流から仕事の骨組みになる事まで、大学院で過ごした時間がいかに充実し恵まれていたのかを痛感します。日々の生活に追われていると自分の過ごしてきた時間を思い返すこともなかなかありません。今回このような機会を与えてくださった皆様に改めて感謝いたします。これからも大学院で学んだ事を糧に、一層自分の人生を充実させていきます。また今後も神奈川大学大学院が、院生それぞれの夢を支え応えてくれる場でありますよう心からお祈りしています。

詳しく見る

大学院で何を学ぶか、学んだか
私の経験を基にして

原田 仁文
マレーシア国立
Univertisti Malaysia Perlis 准教授
神奈川大学大学院経営研究課
博士後期課程2004年修了

これからは間違いなく大学院の時代です。日本の社会だけでなく世界中で大学院教育の重要性が唱えられています。特に経営学は実学であり、学んだ者と学ばなかった者が同質であれば学ぶ意味がなく、必要がないということになります。結果的にそうならないように「大学院で何を学ぶか、学んだか」というテーマに沿って考えて行きましょう。

大学院を修了して、「何を学んだか」と問われて一言で答えることは難しいことです。まして、これから大学院で学ぼうとする者に「何を学ぶか」と問いたところで、学ぶことがありすぎて一言では簡単に答えられないでしょう。

私が博士課程で学んだ理由は、将来自分の仕事に必要なものを学ぼうと思ったからです。つまり、博士課程で学ぶことは、セルフアクチャリゼイションであり、もっと広い世界で活躍できると思ったからです。

それで話を戻して、修士課程を修了したにも関わらず企業や組織に戻らず、または行かず、別な世界でその知識を活用したい学生が行くところが、博士課程にあるのではないでしょうか。例えば、50人修士課程を修了して、そのうちの5%つまり二人か三人は博士課程で学んだことによって、より深く経営学を学びたくなるかもしれません。

通常、修士号を取得した後、企業に戻ってより良いリーダーになるか、ボスになるか、それとも起業家として新しいベンチャーを設立するのは、もっと高い収入を求めたい理由があるからです。

収入なしに生活することはできませんが、博士課程で学ぶということは、それ以上というか、それ以外のものを求めているということになります。将来、研究者になるのか、それとも大学教員になるのか、選択する道は広がると考えられます。

私の場合、博士課程で学ぶことは、前述したようにセルフアクチャリゼイションであり、自分自身をアップグレイドして、過去とは違う世界に行くつもりで学びました。

私が指導教授の丹野先生から学んだことは、オリジナリティがあるかないかという考え方でした。この考え方は非常に有効的で、論文やジャーナルまたはビジネスなどの計画書や雑誌の記事に至るまで執筆するときに大切なことです。

また、この考え方でビジネスを見てみると、どなたでも可能なビジネスは、つまり誰にでもできるビジネスは、近い将来誰もできなくなるということです。簡単に競争相手が増えて利益が上がらず、その上ブームが早く過ぎてしまうからでしょう。誰でも簡単に真似できないビジネスだからこそ、長続きして繁栄することができるのであって、そこにはオリジナリティというものが存在し、そのような結果が生まれるのではないでしょうか。

私はオリジナリティという考え方を学び、それを自分の働く場所で活用することを学んだということです。

何を修士課程で学ぶかという問いに答える前に面白い例を挙げたいと思います。昔、ヨーロッパの歴史でどの国の兵士が勝ち残ったというと、鉄の鎧を身に着けた兵士であったこと。つまり、鎧を身に着ければそう簡単には切られませんから戦場で殺される確率は少なかったということです。

この例から分かるように、「修士課程で何を学ぶか」という問いに関する解答は、「知識という鎧兜を身に着けることを学ぶ」ということです。これを身に着ければ、会社や組織またはビジネス世界でそう簡単に負けることはないでしょう。

将来、アドバイザーや評論家を目指すのであれば、博士課程まで頑張ってほしいと思います。もちろん、修士課程で学んだ知識という鎧兜を身に着けて、飛び道具を持てば、鬼に金棒ではなく、鬼が鎧兜を着て、飛び道具を持った状態になり、活躍できることは間違いないでしょう。まだまだお伝えしたいことはあるのですが、このテーマから外れては意味がないのでこの辺でお別れということにしましょう。これから大学院で学ぼうと考えている人たちに健闘を祈っています。

詳しく見る

神奈川大学の想いで
企業人と大学院生

畑中 邦道
M&T経営研究所 所長
神奈川大学大学院非常勤講師
神奈川大学大学院経営学研究科
博士後期課樫1999年修了

私は、神奈川大学の経営学研究科に社会人大学院生として入学を許可され、企業人と研究という、二足のわらじをはく稀有な経験をいたしました。その結果は、課程博士第一号の誕生ということになりました。日本では、企業は企業、学問は学問、という特殊な環境があります。経営学博士号は、企業人としてのその後に影響を与えたかと言えば、無かったということになりますし、個人としての内部ではどうであったかと言えば、大変貌を遂げていたということが言えます。入学を許可された時、私は、HOYA の事業統括部長という職にあり、事業の統括責任者として世界を飛び回っておりました。神奈川大学の湘南ひらつかキャンパスに経営学部ができ、大学院の創設が認められ、一段落ついたころ、経営学部の創設に尽力され、初代研究科委員長となられた衣笠洋輔先生から、社会人大学院制度を活用して勉強してみないか、とのお誘いを受けます。

そして、紆余曲折を経て、経営学研究科での社会人大学院生という、初めてのケースが始まったのです。私が五十歳を迎える頃でした。ご指導をいただいた先生方の真剣さは、企業人としての私に、大きな刺激と影響を与えてくださいました。今でも、多くの先生方との関係を、続けさせていただいています。その中でも、常石敬一先生が、異業種で新規事業創出に取り組んだソニーの友人と、大学の研究室で同じ研究をした同期であったことが分かり、私の友人から学んでいるような親しみと、学ぶことの楽しさを覚えました。また、松浦春樹先生とは、理論と実践のギャップについて、お互いに譲らず、夜遅くまで、学外を含め度々議論をしたことが、新鮮な想い出として残っています。衣笠洋輔先生には五年間に渡り、国際経営の経済効果の枠組みについてご指導いただきました。それまでの、「規模の経済」、「範囲の経済」の枠組みからの企業経営に加え、私の博士論文となった、効率やスピードの異なる事業経営の新しい枠組みである「時間の経済」、インターネットの外部性をプラットフォームとした「情報の共有と同時性」の経済効果を狙った新しい国際経営の枠組の考察について、夜を徹しての議論とご指導をいただきました。今では、「時間の経済」の枠組みは既知の事実となり、「情報の共有と同時性」の枠組みは、ストーリー性に頼る因果関係の分析だけではなく、ビックデータからの統計的相関関係抽出による経営手段や、未知を推測するアナロジー思考の領域にまで広がってきています。

私の、人と人との出会いは、苦い経験もしましたが、多くは、私に大きな成長をもたらしてくれました。事業でも学問でも、知の作業は、人を介してしか伝達されず、人によってしか伝搬や醸成もされないこと、新しい発見は人からしか生まれないこと、経験することは何にも勝る知の獲得であり、学問することからは必ず先行指標がみつかることを、二足のわらじを通じて身をもって学びました。今は、次世代に、その知と出会いの一片でも繋いでいけるようにと、日々を大切に過ごしています。

詳しく見る

おもしろいということを学ぶ

川野 祐二
下関市立大学教授
経営学研究科博士後期課程満期退学

私は平塚キャンパスの一期生で、経営学部の一期生で、大学院経営学研究科の一期生です。学部にも大学院にも先輩はいません。なにしろ、キャンパス内に先輩がいなかったのです。同期生の誰も「大学」や「大学院」がどういうものなのか知っている人はいません。それでもそのおかげで、私たちは何もかも自分たちで新しく作っていくのだという気概にあふれていました。 一期生の諸氏は皆とても積極的で、才気と個性に満ちていました。サークルを次々に設立し、科目履修もゼミ選択も、自分たちが最初に始めることができた学生生活はとてもエキサイティングでした。そこはまさにVAC (Value Added Campus)といった感がありました。

平塚キャンパスでは、先生方が先輩のような存在でした。これは設立当初ならではの雰囲気だったと思います。なにしろ学生の人数が圧倒的に少ないのです。キャンパスは広大で、大学の周囲に遊べるところはありません。居酒屋もありません。だから暇さえあれば学生は研究室に出入りしていました。どの先生の研究室を訪ねても、いつも学生がたむろしていました。私も随分と先生方の部屋を訪れました。

大学院に入るにあたって、私は技術移転について研究しようと思っていましたから、その分野で知られた、ある大学の研究室を訪ねました。しかし、そこの院生に混じって演習授業に参加したところ、思いもよらぬ事態が待っていました。

「おもしろくなかった」のです。「おもしろくない」ということに、私は強いショックを受けました。それが自分の不勉強によるものなら、まだ改善の余地があるけれど、私は自分が学究徒としての資質に欠けていると思ったのです。道を誤ったと思い、すっかりしょげてしまいました。そこでもうそのときは、やけのやんぱちという気持ちでしたが、学部生向け授業ではあったけれど、中山先生の「技術移転論」を聴講することにしました。学部時代に履修をしていない時点で愚かなのですが、大学院にもなって学部生に混じって授業を受ける我が身に呆れつつ、その愚かさに憮然としながらも、今後の進路を見直すきっかけにならないかと思って学部授業を聴講したのです。しかし、そこで再び予期せぬ事態が起こりました。

「おもしろかった」のです。そして「おもしろいと感じた」ことにも大いに喜びを感じました。私には知的なことに感動できる感性があり、それは研究を志す資格をまだ失ってはいない証左だと思ったからです。

その頃(おそらく今でも)技術移転に関して体系だったテキストはありませんでした。しかし目の前で中山先生が語る技術移転の歴史は、その転換点と変遷を鮮やかに提えた物語のようであり、舞台上の演劇を眺めているかのようでした。時代のトレンドの捕まえ方は、まるでサーフィンで波乗りをしているような錯覚すら覚えました。この人は複雑な事象をなんて分かりやすくしてしまうのかと驚き、これが歴史の力なのかと感動しました。そして、私は歴史で語られたときに「分かった!」という感覚を持つ人間だと知ったのです。私は大学院に入学してのちに、ようやく指導教員と自分の研究関心を理解しました。こんな馬鹿な院生はいないでしょうが、奇跡的にも学部時代の恩師の勧めてくれた先生が、指導を仰ぐべき方だったのです。

ようやく中山先生が科学史の専門家だと知ると、慌てて科学史の教科書みたいなものを読んで、勇んで演習で発表しました。しかし、そのときの中山先生の言葉は忘れられません。いかにもつまらなそうな顔をして聞いておられたのですがついにガマンも限界に達したご様子で、「あ―、聞いていたんだけど、僕はそれが専門だから、今のような話はみんな知っているんだ。退屈でたまらないんだ。頼むから僕の知らない話をしてくれないか。」 中山先生の指導方針はこれでお分かりいただけると思います。

博覧強記の中山先生の知らない話をするというのは大変です。結局、奮闘しているうちに私はNPO(非営利組織)の研究者となり、現在に至っています。また、指導方針よろしく、さまざまな先生方の指導を受けるようにしました。また、そうするべく勉強会を立ち上げもしました。院生による自主勉強会「研究会アジア」には、後藤伸先生と丸岡洋司先生にお願いしてご一緒していただきました。社会科学の古典的な書籍を選択して発表するのですが、お二人はまるで院生のように自らも発表されました。近経とマル経、西洋とアジアというご専門の違いもあって、お二人の議論は常に刺激的でした。先輩のいない私たちにとっては、大学院らしい雰囲気を味わったときでもありました。

博士課程の後期に入ると積極的に外部の研究会に出るようにしました。この頃から平塚キヤンパスにいる時間は少なくなりました。それは研究を志すには不可欠なことでした。外部とのアクセスには不便な場所ですから、修士課程が終わった時点で、必然的に平塚から距離をとることになるのです。私は中山先生が主催しておられた、戦後日本の科学技術と社会を考察する「通史研究会」に参加するようになりました。そこは私を研究者として鍛えてくれた場です。慣れ親しんだ平塚キャンパスから離れ、研究者グループによるアカデミックな空間に身を置くことによって、私は少しずつ研究者らしくなっていったのだと思っています。

詳しく見る